Who is "Master" Seki-san?

現在、ギターのリペアだけでも年間1200~1500本の本数をこなすプロフェッショナル・リペアマン
“関先生”はどのようにして産まれたのか?彼の歩んできた物語の一部をご紹介。

●STORY

新潟県の小京都とも呼ばれるとある町で生を受けたSeki-sanは、ごく普通の少年として育った。

~ だいぶ省略(笑) ~

●リスナーとしての音楽との出会い。。。。
「小学生の頃は大抵の子供と一緒でアイドル系歌謡曲が好きでした(笑)調度スケバン刑事が流行っていて、南野陽子とか、斉藤ユキとかがお気に入りでしたね。より楽器演奏的なものに興味を持ったのは中学生になってから、TVか何かで聞いた”スクエア”からです。カッコイー!とかなりの衝撃を受け、その中でもドラムのサウンドに魅了されそれからは毎日家でエアドラム三昧ですよ(笑)」

●ギターとの出会い。。。
「 中学生になり少し経った頃、友達から「皆でバンドやろうぜ!」と誘われ「俺ボーカル、お前はギターやれ、あいつはベース、ドラムは奴」と勝手に振られてドラマー志望が何故かギターに決定してしまいました。
早速近所の質屋に行き物色していると二本のギターが目に留まり、あの中の良い方を買おうと思いながら一旦帰り、さて翌日買いに行ってみると、一番欲しかった方が既に無く、しょうがないのでもう一本のエレキギターを買いました。
これが私の第一のギターとの出会い、”Founder”のストラトでした! このギター、改めて今回引っ張り出してみるとボディーの形状はまあまあです。が、しかし、ヘッドは継ぎ接ぎだらけ、ブリッジは意見して分かる程完全に斜めに付いてます!当時は分からずに弾いていたんですね(苦笑)


●まともなエレキギターとの出会い。。。
その頃は猫も杓子も”BOOWY”時代、迷うことなく我々もボウイを演奏していましたね 。 別の奴に紹介され”Blue Hearts”も少しやった覚えがあります。
ある日、メンバーの友人で他の学校に通っていたT君(後であぽろんの店長になる人)が何度か見学に来ました。彼も別な所でバンドをやっていると言う事で様子を探りに来たようでした。顔見知りになってから再度来た時、彼が自分のギターを持って来ていましたので見せてもらい弾かせてもらったところ「なんてかっこよくて、弾きやすくて、音がいいんだ!(Fernandesのバクチクモデル?TEJ-70BTの白だったと思います)」と衝撃を受け「こんなペナペナベニアギターじゃだめだ!」と決心し、バイトをして次に買ったのは別の質屋から買ったYAMAHAのSFXモデルでした。

とりあえず凄そうなトレモロも付いているし良さそうだと思って買っては見たものの、ペグを回してもいっこうに音程が変わらない!?・・・ロック式のトレモロに慣れるまで少々時間が必要でした。。

その後個人的には完全に洋楽好きになっていき、モトリークルー、イングベイ、Mr,Bigなどなど、よりハードなギターソロ志向になっていき、「なんだかやっぱり質の良いギターじゃないとダメだ」と思い立ち、又必死でバイトをしてとりあえず10数万円になったところでギター雑誌に出ていた茶色の高級そうなストラトタイプに何故か惹きつけられ、迷わず新潟のあぽろんへ電話して即注文!Schecterの20数万円のマホガニーボディー、マホガニーネック、エボニー指板、モンスタートーンのモデル。今考えても中々良いチョイスだと思いますが何故このギターだったのか、よく覚えていません??なんとなく、その「色合い」に惹かれたのは記憶にあるんですが・・・このくらいのギターを買えば練習せざるを得ない状況になりますよね、それからは、とにかく練習しました!
こんなコンポ系ストラトでモトリーなどをやり、家ではギターソロの反復フレーズ練習に明け暮れる毎日。そんなこんなでどんどん「ギター」という物にのめり込んで行きました。

●卒業~就職:ギター製作学校へ
高校卒業が近くなり進路を考える時期になっても 「とりあえず普通のサラリーマンで働く気は全然ないなあ」と思い、親には内緒で以前雑誌で見た”ギター製作学校”に行きたいと思い始める。しかし、どう考えてもストレートに納得されるはずが無いのは予想できるため、「新聞奨学生制度を利用して学費は俺が出すから、行かせてくれ!」的な事を言ったと思います。その意志の固さが伝わったのか、最終的には親の許可が出ました。
結局学費は足りなくて、その分は親が援助してくれましたけど。(笑)

最初、心情としては99%の希望で”○●○ミュージックスクール”のギター製作課。とりあえず見学したいと電話してみたところ、「今日は休みなので無理です。」とあっさり断られたため、やむなくもう一つの”○○○○○○○エンジニアスクール”の方を見学し、講義内容などの説明を受けて印象が良かったのでこちらへ入学しました。
在学中は通常夜6時頃まで実習した後友達と遊びまくり12時頃帰宅して3時頃起きて新聞配達というハードな日々で毎日眠くて体が揺れている様な感じでしたが、とにかく夢中で楽しい事ばかりで充実した二年間でしたね。


●再度卒業~帰郷~就職
規定の二年間を終え無事卒業後就職探しの段になり、しかし大きい工場でのライン的仕事は嫌なのでコンポ系の工房的ギターメーカー数社に飛び込みで応募してみたんですが、時既にバブル崩壊後でギターも売れなくなり始めていた頃のためほぼ撃沈。一社だけ某”T”社からは内定が出そうになったんですが結局は駄目でした。。。

ギター工房への就職はとりあえず一旦すっぱりと諦め、とりあえず地元に帰るか・・と言う事で故郷の高級桐箪笥製造の会社に入ることに。元来子供の頃から何かを造る事が好きだったため、楽しく毎日を送っていました。特にここで職人さんから習ったノミなどの刃物の研ぎ方は後にギター製作にも十分役に立つ事になりました。非常に勉強になりました。
しかし勤め始めて約半年 、急にギター製作学校の恩師より電話で「欠員が出るんだけど、どう?講師やってみない?」即決で再度東京へ!

●ギター製作学校講師&モニターミュージシャン向けギター・ベース製作の日々
急な話だったため講義内容や進め方などは前任者=恩師のノートを引き継ぎ、実際に講師として教え始める事に。

そこのカリキュラム一年目は工具や機材の使い方に始まり、デタッチャブルネック~セットネック~スルーネックと進みます。ここで生徒達には箪笥屋で培った工具の研ぎ方をしっかり教えました。当りまえですが道具は大事ですよね、
切れない刃で作業しては良い物が出来るわけも無く、結果的に時間も掛かります。それまでの自分なんて一年に一度くらいしか研いで無かったんですから。(苦笑)

二年生になるとほとんど実習になるため講師は手が空く時間が出てきます。このメーカーではその時間を利用して一部の講師にミュージシャン、モニター向けのハンドメイドやプロトタイプなどの製作を委ねていました。自分もかなりの数を作りましたがその中で記憶にあるミュージシャンモデルは;
L'Arc-en-Ciel のKen氏、D'ERLANGER/CRAZEの瀧川一郎氏、Janne Da Arc ka-yu氏、そしてHIDE氏(幻のモデルと言われるHRのワンオフモデル…これは私の製作した物がHIDEミュージーアムのショーケースの中で大切に保管されていたと見に行った生徒から聞きました。)
などなど・・・こういった直接ミュージシャンに渡るモデルは型を作って板を切り出す所から、完全にハンドメイドでした。
そのスクールには計8年間講師として在籍し、それなりの数の生徒さんたちを教えた事になりますね。今でも楽器メーカーや個人製作家として製作に関わっている者や、楽器店のリペアマンとして活躍している生徒も大勢います。

●再帰郷~あぽろんとの出会い

8年目は2年生を教えていたんですが、彼らが卒業して新入生が入ってきたら後2年=10年・・・と思うとそろそろ潮時かなと思い、遠距離恋愛の彼女を地元にずっと待たせていることもあり、とりあえず就職の当ても無いんですが帰郷を決心しました。

帰って来てすぐ、地元の知人と話していると「帰ってきたんだ?それならリペアやれば?店に聞いてみようか?」ラッキーな事にその彼はあぽろん三条店でバイトをしていたのでした。そこからはトントン拍子、バイト→三条店店長→専務に話が回り、是非やってもらいたいと言う事で2002年頃からあぽろん専属のギター・ベースの修理、改造、又Nashギターなど輸入品のチェックメインテナンスなどを担当する事になり、自宅倉庫に作業場を作って開始!

大好きな地元で自分の作業場でギターに向かい、休める時は自宅近くの川でもう一つの趣味である釣りに興じる・・充実した日々を送っています。